俺がヘンなのかpresents流行語大賞2016

毎年この時期に流行語大賞のニュースを聞くたびに、「軽妙に世相を衝いた表現とニュアンス」を持った言葉を選ぶという本来の趣旨からかけ離れた選考結果に納得がいかず、欲求不満の元になる。ならばとこのブログで独自に流行語大賞を選考してみようと思うのだが、実際に選ぼうとするとその年の世相を映し出す言葉といってもそれほど多くはなかったり、あるいは単純に面倒臭かったりで、結局は前回2010年に一度UPしたきりの企画になっていた。
しかし今年は個人的に印象に残った言葉が意外に多く、久しぶりにUPすることにした。『俺がヘンなのかpresents流行語大賞』第二回の開催である。

【トランプ現象】
トランプが大統領になることでアメリカや世界の政治経済にどんな影響があるのか、選挙結果がアメリカや世界にとって良かったのか悪かったのか、正直俺には分からない。ただはっきりと想像できるのは、大統領選を通して反トランプを掲げてきた人達の敗北感の深さだ。彼らの中にはヒラリーを積極的に支持するわけではないが「トランプだけは大統領にしてはいけない」と強い信念を持った人が少なからずいたはずだからだ。
第二次大戦以降、アメリカという国は世界で最も強くて豊かで自由で、誰にでもチャンスが与えらる国であり、少なくともアメリカ人にとってアメリカは世界の秩序を守護する国際社会の盟主たる国家だった。政治でも経済でも文化でもスポーツでも常に世界のNO1であることで、アメリカ人は自国を誇りとし、自信に満ち溢れた国民であり国家だった。そしてそんな超大国のトップに立つアメリカ合衆国大統領とは、まさにアメリカの象徴、アメリカの強さと自信と正義を体現する者として国民の信頼と尊敬を一身に集める存在だった、いやそうあらねばならぬはずの存在だった。
ところが、今回の選挙で次期大統領の座を射止めたトランプという男は、上記の様な大統領像とは真逆の男だ。まず政治に関してはほとんど経験が無いド素人で、一般人から見ても馬鹿げたトンデモ公約を連発し、有色人種や異教徒や女性に対する差別的発言を繰り返し、金儲けだけは上手いかもしれないが大金持ちのくせして小狡く税金をごまかし、確定申告書の公開を拒否し、兵役も小狡く逃れ、おまけに下品で傲慢で髪型がヘンテコなセクハラ親父(というか爺さんだが)。少なくとも反トランプ派のアメリカ人にとっては、これがD・トランプであり、アメリカは来年からこの男を大統領として戴かなくてはならなくなった。
選挙終了直後からアメリカ各地で巻き起こっている反トランプデモは早晩沈静化するのだろう。しかしデモが収まったとしても国民の反トランプ感情が消え去るわけではないだろう。むしろデモが収まることによって反トランプ派の敗北感は更に深いものになるはずだ。そしてそれは今後アメリカ人の心に深い傷となってを残り、この国のあり方に少なからぬ影響を及ぼすと思う。
今回の選挙をきっかけに、アメリカはこれまでとは違った国に変貌してしまうような気がする。

【シンギュラリティ】
本家の流行語大賞では「AI」がノミネートされている。AIが囲碁の名人を負かしたりして話題になったから、まあそれも分からなくはないのだが、当ブログでも記事に書いた通り個人的にはこちらの方がインパクトが大きかった。およそ30年後といわれるシンギュラリティとその後に向けて、これから世の中が加速度的に進化発展していくのかと考えると、なかなかわくわくさせてくれる言葉ではある。

【ベーシックインカム】
今年、スイスでベーシックインカム導入の是非を問う国民投票が行われたのをきっかけにニュースでこの言葉を聞く機会も多かった。資本主義の問題点が様々な形で顕在化している中で、これもまた時代の大きな転換点を感じさせる言葉であった。

【生前退位】
本家の流行語大賞ではノミネート無し。どこからか圧力があったのか、それとも主催者側で自発的に空気を読んだのか、今年を象徴する言葉としては結構大きなインパクトがあったと思うのだけれどねえ・・・。
このニュースに触れる過程で天皇の仕事というのが我々下々の者が想像する以上にけっこうハードなものであると知らされた。それと同時にそんな激務を82歳という高齢の今上天皇に今後も続けさせるのは個人的には酷な話だろうなと思う。だから本人が望むのであればすんなり次の代に交代して貰っても良さそうなものだと思うのだが、それほど簡単な話でもないらしい。
この国における天皇の存在について改めて考えさせられる言葉であった。

【ゲス不倫】
本家流行語大賞にもノミネートされたでゲス。個人的には全く関心は無いでゲスが、今年は聞きたくもないのに不倫のニュースが本当に多かったでゲス。ベッキー川谷に始まって宮崎謙介、乙武、高知、文枝、円楽、安村等々、まだまだあるけどきりがないのでこれ位にするでゲス。
ニュースは社会を映す鏡の様なところがあるでゲス。つまりゲスなニュースが多いってことはそれだけ今の日本がゲスいってことでゲス。夫婦喧嘩は犬も食わぬというけど、犬も食わねえようなよそ様の夫婦の問題に首を突っ込んで詮索するゲスなニュースが今の日本人は大好物だってことでゲス。
ベッキーや自民のゲス議員に肩入れする気は微塵もないけど、個人的にはプライベートな恋愛問題で番組を下ろされたり議員辞職するのは筋が通らないと考えるでゲス。そんな事ではなく仕事で評価しろでゲス。

【隠れトランプ】
アメリカ大統領選では、特に選挙戦の最終盤から投票後にかけてマスコミがしきりにこの言葉を言い立てた。要するに、優勢を伝えられたはずのヒラリーが敗れてトランプが勝ち、結果として自分たちマスコミの読みが外れたのは、トランプ支持者の多くが「隠れトランプ」として、世論調査でもその支持を公にしなかったからだという言い訳である。実際それも嘘ではないのかも知れないが、隠れていたのならその潜在的支持層をプロの取材力で炙り出すのが報道ってもんだろう。
だが実際にはトランプ支持者の存在というのは、むしろマスコミによって積極的に“隠されていた”可能性がある。今回の選挙ではアメリカの大手メディアの大半がクリントン支持を表明していた。そんな報道機関がいくらヒラリー優位を喧伝したとしても、世論をヒラリー支持へと誘導する提灯記事とみなされても仕方あるまい。そしてそんな自分達の偏向報道の実態を包み隠すためにメディアが生み出したのが「隠れトランプ」という言葉ではないか。そしてそんなアメリカの報道を鵜呑みにして、右から左へとそのまま国内に垂れ流した日本のメディアもお粗末だった。日本の大手メディアでトランプ優位を伝えたのはほぼ木村太郎だけだが、日本のジャーナリストでトランプ勝利を予測出来たのが本当に木村太郎一人だとしたら、それはそれでトホホな現状といわざるを得ない。

【保育園落ちた日本死ね】
本家流行語大賞にもノミネート。元となったブログ記事の全文は、物書きを生業とする者が読んでもアジテーションとしてほとんど無駄が無く美しい名文だ。当初自民党議員やネトウヨが、このブログ自体が民進党の仕込みなんじゃないかと疑った気持ちも良く分かる(というか正直俺自身一度は疑った)。しかし、ハフィントンポスト日本版の取材に応じた本人は正真正銘の待機児童を持つ母親で、「保育園を落ちた時の気持ちを感情のまま独り言のようなつもりで」書いたとのこと。
待機児童問題という背景はもちろんのこと、「日本死ね」という言い方もいかにもネット時代を象徴しているし、なによりブログ記事をきっかけにTwitterなどでムーブメントを巻き起こした影響力は、今年の世相を反映した言葉として特筆に値するだろう。

【ポリコレ棒】
アメリカ大統領選から生まれた流行語。語源は「ポリティカル・コレクトネス(政治的公正)」で、この公正性を守ろうとするあまりどんな些細な差別をも容認せずに批判する態度や立場を揶揄した言葉。異教徒や性的マイノリティーに対して差別的発言を繰り返すトランプ候補へのポリティカル・コレクトネスを論拠にした批判に対し、彼の支持者が逆に行き過ぎたポリティカル・コレクトネスへの皮肉を込めた造語。「棒」というのは叩く道具。つまり政治的公正の建前をトランプ攻撃の道具としているという批判を込めた言葉である。
アメリカというのはどこよりも差別に対して厳しい国というイメージがあるが、その一方では人種の坩堝といわれる国だけに内心ではマイノリティーに対して差別心や不満をくすぶらせている人は少なくないのだろう。特に近年は異教徒に対する配慮から「メリークリスマス」という言葉が公に言いづらくなっているとか。トランプ勝利の背景にはそんな過度な公正を求められる社会を窮屈に感じていた人達の支持もあったろうことは想像に難くない。大統領選を契機にアメリカ人の本音が図らずも表出した言葉が「ポリコレ棒」なのだろう。

【感動ポルノ】
NHKが今年の『24時間テレビ愛は地球を救う』の真裏で放送した障碍者情報バラエティー番組『バリバラ』でこの「感動ポルノ」を取り上げたことで話題となり、市民権を得た言葉。
『24時間テレビ』をはじめとするあの手の番組の視聴者の一部や、敢えて視聴しない非視聴者の中には、こうした番組による「感動の押し売り」や「お涙頂戴」に対するモヤモヤとした違和感や嫌悪感がこれまでにも確かにあった。ただこれまでは障碍者に対する遠慮や、自らのそうした嫌悪感を正当化する言葉や論理を持ち合わせなかったことから、彼らの感情が表立って表明されることは少なかった。そんな感情に論理的後ろ盾を与えたのがこの「感動ポルノ」という言葉だ。
そういう意味ではこの言葉もまた「ポリコレ棒」と同様に、行き過ぎた建前やキレイごとに対するアンチテーゼとして生まれて来たものという事が出来る。こうした流行語が日米の、それも全く異なる分野でほぼ同時に生まれたということは、もしかしたら「抑圧されてきた本音の噴出」ともいうべき潮流が全世界的に起こりつつあるのかも知れない。

【イナフ イズ イナフ(enough is enough)】
これもアメリカ大統領選挙から、民主党の予備選で最後までヒラリーと争ったバーニー・サンダースの決め台詞。日本語に訳すと「もうたくさんだ」とか「いいかげんにしろ」といった意味だとか。
最終的に選挙に勝ったトランプもさることながら、サンダースも負けず劣らず型破りな候補だ。まず自ら民主社会主義者を名乗る人物がアメリカの大統領候補になるというだけでも仰天もの。またトランプ同様、サンダースも党の主流派(エスタブリッシュメント)とは距離を置くはみ出し者である。そしてもう一つトランプと共通するのは、これまでエスタブリッシュメントが推し進め、温存して来た既存の社会制度と既得権益を批判し、貧困層の救済と雇用促進の政策を掲げたこと。つまり今回の大統領選は民主・共和両党の予備選もそして本選も、実質的にエスタブリッシュメントとその反対勢力の戦いだったと言える。そして最終的に大方の予想を覆して勝ったのは、反エスタブリッシュメントのトランプだった。
実際にトランプに投票した人達をも含めて、恐らくは大多数のアメリカ人から大統領としての資質に疑義を唱えらる様なトランプが、それでも当選してしまったのは、一握りの金持ちばかりを優遇して庶民の暮らしを顧みないヒラリーをはじめとするエスタブリッシュメントの政治に対して突き付けた「enough is enough」に他ならない。

以上、今年の寒四郎版流行語大賞10語を挙げたが、4つまでがアメリカ大統領選に関する言葉だった。自分で選んでおきながらちょっと多すぎる様な気もするけど、それくらいいろんな意味で衝撃的かつ、今後の日本を含めた世の中の成り行きに影響を及ぼす選挙だったとも思う。
いずれにせよ、アメリカ大統領選のみならず、他の流行語を見渡しても、社会の様々な側面で今が時代の転換点に差し掛かっていると感じさせるこの一年でございました。

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時代なんかパッと変わる?

「時代なんかパッと変わる」これは1980年代に発表されたサントリーウイスキーの広告のキャッチコピーだ。最近何かと話題になる人工知能(AI)とかシンギュラリティ(技術的特異点)に関する記事を読むうちにふとこの言葉を思い出した。
当時のサントリーと言えばハイセンスな広告作りに定評があり、このコピーもそんな作品の一つとして今でもネット検索でヒットする名コピーなのだが、当時大学生だった俺にとってはそれほど印象に残るものではなかった。20代までの俺にとって、時代というか世の中なんてそうそう簡単には変わらないものだった。だからこのコピーの言葉も当時の俺にとっては、敢えて逆説をとることで受け手の関心を引く、広告手法としての方便でしかなかった。このコピーを思い出して、しみじみと共感するようになったのは30歳を過ぎた頃からである。

人間何十年か生きてれば自ずと時代の移り変わりというものに触れることになる。そして時には時代がごく短期間に大きく動き、新しい時代に移り変わるのを目の当たりにすることもある。あるいは、世の中はそれほど変わらなくても、何か大きな出来事によって逆に自分自身の世の中の見え方が大きく変わってしまう場合もある。具体的には俺の場合、ソ連邦の崩壊とそれに伴う東西冷戦の終結、95年の阪神大震災とオウム真理教事件、そして東日本大震災と原発事故がそんな体験だった。
それまで当たり前と思っていた社会の枠組みや秩序、日常生活の基盤といったものが一瞬のうちに崩れ去り、それまでとは異なる新しい世の中のありようが出現する。物心ついた時からずーっと国際政治の大前提だった東西冷戦がある時あっさりと終る。かと思えば現実世界で起こるなんて考えもしなかったメルトダウンが突然起こる。でも、だからといって「もう俺は何が起きても驚かない」なんてことは言わない。例えば明日突然第三次世界大戦が勃発したら、やっぱり驚きうろたえてどうしたらいいか分からないだろう。それでもやっぱり心のどこかでは思う筈だ、そう、時代なんていざ変わるとなったら本当にパッと変わってしまうものだし、目の前にある平和や安定した生活、今ある常識やどうにも動かし難い現実、あるいは自分自身の価値観でさえも、いつどんなきっかけであっけなく崩れ去るかも知れぬ脆いものなのだと。

さて、今回の記事の主題はシンギュラリティだ。コンピューター(人工知能)が人間の知性を超えるのがシンギュラリティ。2045年ごろにその時が来ると言われている。
今年3月、Googleの作った人工知能「アルファ碁」が世界最強の棋士を破ったことで、にわかに人工知能とシンギュラリティへの関心が高まった。人工知能がひとたび人間の知能を超えた後には、その人工知能によって更に高度な人工知能が生み出される。すると以後のコンピューター開発は人の手を離れ、コンピューターが次世代のコンピューターを開発する事となり、これまでとは次元の異なるスピードで開発が進むことになる。
まず、汎用人工知能(人間の様に様々な事を自分で考える事が出来る人工知能)を搭載した一台のコンピューターが人間一人の知能を超えるのが2029年とされ、これが「プレシンギュラリティ」と呼ばれる。そして真のシンギュラリティではコンピューター1台(価格はおよそ1000ドル程度とされる)が全人類73億人分の脳を合わせた処理能力を超える。それが2045年。その過程でコンピューターに限らず全ての科学技術が加速度的な速さで爆発的に進歩し、その結果社会全体が想像を絶する変貌を遂げると言われている。

その先陣を切る形で話題を集めているのが自動運転車(スマートカー)だ。俺自身2年前にこのブログでこんな記事 を書いた時には早期の自動運転の実用化に半信半疑だったが、その後の世の中の動きはゴーンさんの予言通りかそれ以上のスピードで進んでいるように見える。それとともに、自動運転車の普及によるトラックやバス、タクシーなどの運転手の失業問題も議論されるようになってきた。

自動運転に限った話ではない。人工知能の進化によってあらゆる物とサービスの生産性が飛躍的に向上し、世の中のあらゆる職種がAIに代替される。その結果近い将来AIによって失業する労働者の割合は全体の4割とも9割とも言われている。
例えば、既にスーパーのレジでも一部セルフレジによる自動化が進んでいるし、ガソリンスタンドもセルフ化が進んでいる。またこれら現業職以上にAIによる自動化が容易なのがホワイトカラーの事務員だとされている。いやそれどころか、最近では人工知能が書いた小説がコンクールでの最終選考に残った(まあこれは流石に人間がかなり手を加えたみたいだが)。ゆくゆくは芸術の分野にも人工知能が進出するとも言われる。

予測される失業者が、仮に少ない方をとって40%だとしても、近い将来(向こう10年か20年)でそれだけの労働者が職を失うというのは容易ならざる事態である。ましてや失業率が90%にもなったら、もはや現在の社会体制をそのまま維持することは不可能だろう。
そのため労働の自動化と共に度々議論されるようになったのがベーシックインカムの制度だ。国民全員に例外なく最低限の生活費(8万円とか12万円とか言われてる)を支給する制度。もしこれが実現したら、人類史上初めて生活の糧を得るための労働が不要になる時代が訪れるかも知れない。世の中のありようや人々の生き方までをも根底から変えてしまいかねないある意味夢の様な政策だが、それは決して絵空事とも言い切れない。実際に今年スイスではベーシックインカムの導入の是非を問う国民投票が行われたし(結果否決)、オランダでは一部の都市で実験的にベーシックインカムが導入されている。

自動運転やベーシックインカム、それら一つ一つをとっても、社会に及ぼす影響は並大抵ではない。だがこれらは、実はシンギュラリティとそれに伴う技術革新が描き出す未来像の、ホンの一断片に過ぎないのだという。
現在、シンギュラリティにまつわる議論を牽引しているのは「シンギュラリタリアン(シンギュラリティ論者)」と呼ばれる人工知能やコンピューターの開発者。その代表格がアメリカのレイ・カーツワイルや日本の齊藤元章だろう。カーツワイルはGoogleのAI開発の総指揮官、齊藤は省電力のスーパーコンピューターで世界のベスト3を独占したベンチャー企業の社長で、いずれもこの分野の世界的権威であることは間違いない。だが彼らが予言するこの先30年くらいの近未来像というのがどうにも荒唐無稽過ぎて、普通の人間には、いや少なくとも俺にはなかなか受け入れがたいのだ。

例えばこのインタビュー記事で齊藤は小型核融合炉の実用化を前提に以下の様に述べている。少し長いが引用。

「無限のエネルギーが手に入れば、理想的な農業工場が誕生します。閉鎖環境で最適化された稲作を行えば、年に12期作が可能だと言われています。さらに遺伝子操作をすれば24期作すら可能になり、高密度・高集積な植物工場が実現できるでしょう。現在は照明や空調などの電気代を考えると割に合わないのですが、エネルギーが無限に手に入ることで採算がとれるようになるのです。植物工場に加え、魚や豚、牛などの大規模で高効率な養殖も同様に実現し、食が無料化します。また、植物工場では繊維も生み出せることに加えて、化石燃料が有り余ることで化学繊維の原材料費もかからなくなるため、衣料用の繊維なども全て無料化されます。それを無料の動力とロボットで稼働する工場で加工することで、衣料品が無料になります。農地が不要になり、ネットワークが更に進化して都市への人口集中がなくなることから、特殊な場所以外は土地が無料になり、建築資材の無料化も進みますので、住居の無料化も進展するでしょう。こうして、人類は衣食住から自由になり、労働からも開放されます。すると、生きるために働く必要がない社会が生まれ、そこで人類は、自由な活動をして生きていけるようになります。これらの変革の先に、人類は今と異なる人類『新生人類』へと進化します。もし私たちが『現生人類』最後の世代だとしたら、私はその転換点を何としても見届けたい。その転換点であるプレ・シンギュラリティとその次のシンギュラリティを創り出すのが、それぞれ次世代スパコンと汎用人工知能なのです」

ちょっと頭の固い人なら、というか普通に良識のある人ならこれだけでも眉に唾を付けたくなるところだろう。しかし彼らシンギュラリタリアンにとってはこんなのまだまだ序の口で、例えば未来学者でもあるカーツワイルは近い将来不老不死が実現することを信じ、それまで生き永らえるために一日に200錠ものサプリを飲むそうだ。あるいは近い将来コンピューターと人間の脳が直結することで思考がダイレクトに入力されキーボードが不要になるとか、更にコンピューターを介して人間同士の脳も繋がって意思疎通に言葉が要らなくなるとか、遂には全ての人類の脳が互いに繋がることで人類の意思が一つになると予言する。ちなみにカーツワイルはこれを6段階ある人類進化の第5段階としている。そして最終の第6段階は全人類を含めた宇宙の全ての知的生命体の脳がネットで繋がり一つの巨大な知性になるのだという(これを彼は「宇宙の覚醒」と呼ぶ)。
とにかく、ことほど左様にシンギュラリタリアンの描く未来というのはよく言えば非常に先進的であり悪く言えば浮世離れした誇大妄想に思える。世間一般ではまだまだ夢の未来技術とされる核融合や不老不死や量子テレポーテーションといったものも、彼らはまるでシンギュラリティを実現するまでの行きがけの駄賃と言わんばかりに、近い将来当然実用化されるものとして語るのだ。

くどいようだが、上記の様なめくるめく未来像は決して百年千年先の事として語られているのではない。シンギュラリティが来るとされる2045年頃までに、齊藤などは早ければ2030年にも実現するというのだ。
シンギュラリタリアンのこうした途方もないビジョンは一体どこから生まれて来るのか。その根拠となっているのが「ムーアの法則」と、それをカーツワイルが更に一般化した「収穫加速の法則」である。ムーアの法則は集積回路の細密化が1.5年におよそ2倍の速さで指数関数的に進むという法則。そして収穫加速の法則は、生物や人類の進化も同様の速さで加速するというもの。この法則によって人類の文明や科学技術の進歩はこれから先垂直に近い成長曲線を描いて急速に進むのだとか。

で、ここまで書いておきながら言うのもなんだが、俺自身は上記の様なシンギュラリタリアンの未来像を信じるかと聞かれれば、まあ信じない。というか、信じるか否かという単純な問いにはあまり意味が無くて、例えば今「不老不死の実現のために100万円投資してくれたら、貴方に優先的に不死身の体を提供します」と言われたとしても、そんな金は出せない。仮に不老不死を信じるならサラ金から金借りまくってでも投資したいところだろうが、流石にそれは出来ない。でも仮に、俺に10億円位の資産があったとしたら、騙されたつもりで1000万位は投資してもいいと思うだろう。逆に言えば俺にもその程度は信じたい気持ちがあるってことでもあるんだけどね。
それにシンギュラリタリアンが拠り所とする収穫加速の法則にも当然のごとく各分野における識者からの異論がある。いくらコンピューターがこれまで加速度的に進歩してきたからといって、この先も未来永劫同じ進歩が続くとは限らない。むしろどこかで終わりが来ると考える方が自然だろう。ましてやそれを生物や人類の進化にまで当てはめるのには無理があることは、過去に絶滅した多くの生物の例を見れば容易に想像がつく。
そもそも、俺としてはカーツワイルや齊藤の言葉がどこまで本気なのか疑わしいとも思う。シンギュラリティ実現に向けての世論を盛り上げるためとか、投資家からの資金提供を促すためのホラということだって充分あり得るだろう。それに、仮に彼らの言説が本心からの大真面目だったとして、不老不死や労働の自動化はまあ望むところとしても、カーツワイルの言う「宇宙の覚醒」ってのはホントに彼が言うようなユートピアなのかね?宇宙人と脳が直結して思考が筒抜けって、俺にはむしろディストピアに思えるのだが・・・。まあ、頭の良い人達の考えることは俺なんぞには到底計り知れない所にあるのかも知れんし、逆に失礼を承知で言えば、天才となんとかは紙一重って言葉もあるから、世の中には間々そういうこともあり得るのだろうとは思う。

だが、しかし。改めて言うが「時代なんか、パッと変わる」ものなのだ。
そりゃあいくらなんでも俺だって、不老不死や「宇宙の覚醒」なんてものがちょっくらちょいと実現するとは思わない。だが一方で、自動運転や労働の自動化(とそれに伴うベーシックインカム)に向けた動きを見ていると、近い将来本当に、人間に替わって機械が働いてくれる世の中になってもおかしくはないとも思える。それは俺自身の中にある希望的観測を差っ引いたとしてもね。

いずれにしてもシンギュラリティが提示する未来像は、震災や原発事故なんかと違って我々にユートピアの片りんを夢見させてくれるものではある。自動運転やベーシックインカム、汎用人工知能を搭載した万能家事ロボット等々に妄想を膨らませるだけなら金もかからんし、貧乏人にはちょうど良い暇潰しにはなる。手元不如意につき、シンギュラリタリアンの投資話に乗ってやることは出来ないけどね。

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参院選前に見ておいた方が良い動画

参院選まで残すところ10日あまりだが、投票に行く前に見ておいた方が良い動画がある。いずれも自民党の現三役やかつての安倍政権での閣僚経験者など、自民党内で重要なポストを占める国会議員の発言で、同党の性格を知る上で非常に参考になる動画だ。ネット上では問題となる発言部分だけが切り取られて拡散しているが、公正を期すために元となる動画全編を貼りつけることにする。この動画をどう解釈するか、ここで俺の私見を述べるよりは皆さん自身の判断に委ねるために、まずは動画を見て欲しいのだが、全部を見たら2時間以上の時間を要するのでポイントとなる部分だけを書き出しておくことにする。

①創生「日本」東京研修会 第3回 平成24年5月10日 憲政記念会館

12:58~
新藤義孝(内閣府特命担当大臣)「いま奪われている領土、取り戻しましょうよ、北方領土、竹島、しっかりと、主張するだけではなくて行動しなけれないけないと思います。更には尖閣、使っていきましょうよ、有人利用しましょう…」
15:00~
長勢甚遠(元法務大臣)「国民主権、基本的人権、平和主義・・・この三つを無くさなければ本当の自主憲法にならない」
16:20~
城内実(外務副大臣)「日本にとって一番大事なものは何か、私は皇室であり、国体であると思っております。・・・敵は反日日本人であります。」

②稲田朋美4.16道義大国を目指す会

14:15~
稲田朋美(自民党政調会長)「国民の生活が第一なんて政治は、私は間違っていると思います・・・世界中で日本だけが道義大国を目指す資格があるんです。なぜなら2500年以上皇室が祈っておられたのは国民の幸福と平和、それだけじゃなくて世界人類の幸福と平和を祈っておられた、そんな国だから道義大国を目指す資格がある」

③JFSS第25回定例シンポジウム

3:20~
稲田朋美(自民党政調会長)「私は心が揺さぶられる気持ちになりました。国のために死にたいって書いてある。そして国のために役に立って死ぬことこそ本望で、弔う人になるのではなくて弔われる人になりたいんだと」

④稲田朋美 名演説

3:52~
稲田朋美(自民党政調会長)「国民の一人一人、皆さん方一人一人が、自分の国は自分で守る。そして自分の国を守るためには血を流す覚悟をしなければならないということです」

繰り返しになるが、出来れば抜き出した部分だけでなく全編を通して見て欲しい。抜き出した俺個人の私情を排するという意味もあるが、同時にその方が自民党という党の持つ性格がよりはっきりと分かると思うからである。

4本の動画のうち3本までが自民党の現政調会長である稲田朋美の発言である。このうち、特に②の動画の「国民の生活が第一なんて政治は、私は間違っていると思います」という部分については、この部分だけが切り取られてネット上で批判にさらされているが、全編を通して聴けば単なるばらまき経済政策への批判ともとれる。それよりも俺自身が重要だと思うのはむしろその後の道義大国云々の部分で、これを③④の動画における彼女の主張と合わせて聴くと、その国家観などがより鮮明になると思う。
また④については彼女の主張自体もさることながら、それを聞く聴衆の熱い反応を見ても自民党の内部とその支持層の持つ性格が垣間見えるようで非常に参考になる。その意味でも4分半ほどの短い動画なので特に④は全編通して見る事をお勧めする。

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いじめはなくならないかも知れないが減らすことは出来るかも知れない

このブログで最も多くのコメントを頂いているのは『いじめによる自殺は死んだ子の親の責任です』という記事だ。俺自身がいじめられっ子だったこともあり元々関心があったテーマではあるが、この記事を書き、多くの方からコメントを貰ってそれにレスを書く中で、改めていじめについて考える機会も多くなった。
それで関連する記事や動画をネットで見ることもあるのだが、今日Youtubeで見つけた以下の動画はいじめに関する多くの具体的提言を含んだ中身の濃いものだった。

社会学者の宮台真司氏がいじめについて語ったラジオ番組で、表示には51分とあるが後半は同じ録音のリピートなので実際には27分くらいで聴く事が出来る。いじめに関心のある人には是非お勧めしたい。
上記の記事やコメントでも書いたが、俺自身はいじめは人間の本能の様なものから生まれるもので、これをなくすことはほとんど不可能だろうと思っている。宮台氏もこの番組でやはりいじめはなくすことは出来ないと言っているのだが、同時にいじめを減らすことは出来ると主張し、その具体的方策を述べている。その提言を聞き、俺自身「いじめはなくならない」としてきた自分の考えがやや硬直的で或る種の思考停止に陥っていたのではないかと考えさせられた。我が身に対するその反省の意味も込めてこの動画を張り付ける次第である。

宮台氏によれば、いじめは同じ人間が長い時間一緒にいることで生まれることもあるとのこと。これは今日まで専門家によって積み重ねられてきたいじめに関する研究で明らかにされているそうだが、同時に素人のオッサンの感覚で考えても容易に想像可能な事でもある。だから、現状では子供の教育に関する機能が学校に集中し過ぎており教育の全てを学校任せにするのは好ましくないという彼の意見にも、俺は賛成だ。例えば放課後の部活動などは必ずしも学校でやる必要はないのだから、個々人が学校から帰った後にそれぞれ好きな地域サークルなどに所属すればいい。それには宮台氏も主張する通り、受け皿となる地域のコミュニティーの再生が必要となるだろうが。
学校の部活、特に運動部のあり方については俺もかねてから疑問に思うことが多かった。本来教育の一環として行われるはずの部活が、現状ではややもすると学校や教師の実績作りの手段になってしまっているし、特に私立校の運動部などは学校の広告塔と言っても過言でない現実がある。
そしてそうした現状が、部活動を受け持つ教師に対する圧力となり、時間的にも精神的にも多大な負担を彼らに背負わせる結果を生んでいる。俺にはそんな部活動の現状は教師にとっても子供にとっても好ましいとは思えない。

学校の機能分散以外にも単位制高校の導入など、宮台氏はこの番組の中でいくつかの提言を行っている。それらはいじめに関する長年の専門家の研究に裏打ちされたものであり、いじめをめぐる子供たちの環境を抜本的に変革する具体的で実現可能な方策だ。宮台氏も認める通り、その実行には既成概念に捉われた教師や父兄からの抵抗があるだろうし、その他にも多くの問題をもはらみ決して簡単な事ではないかも知れない。

しかし、いじめを減らすための具体的な方策がそこにある以上、あとはそれを「やるかやらないか」だけである。求められるのは悲惨ないじめの実態を嘆き悲しむ事でもなければ加害生徒や教師や学校を糾弾する事でもなく、出来る対策に向けて一歩を踏み出す意思とそのための議論のはず。問われているのはいじめに関わる全ての大人たちの「やる気」と「誠意」だと思う。個人的にはそれらを持ち合わせない者にはマスコミだろうが個人ブログだろうがいじめについて語って欲しくないというのが正直な気持ちである。


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安保法案について考えるところをダラダラと書いてみる

うん。俺にも思うところは色々とあるし、これまでにもこの問題に関して記事を書きかけたこともあった。ただ、この件に限ったことではないのだが、どうも最近は世の中の様々な問題に関して、考えれば考えるほど、そこに立ちふさがる現実世界が動かし難い八方塞がりに見えてくる。その虚しさに記事を書く気力もなかなか続かないのが正直なところだ。
それでも、世の法学者の大半が憲法違反とする法案が国会を通過しようとする現実を前にすれば、ただ黙って見過ごすというのも腹立たしい。なので改めて枯れかけた気力を振り絞り書いてみる。ただし、この問題に絡む諸々をきちんと整理して書きまとめるだけの自信はないので、とりあえず自分の思うところをダラダラと書き連ねるだけだ。

まず、安全保障と憲法9条に関する俺の個人的な考え方を述べる。
憲法9条の1項と2項の条文を、日本語を母国語とする普通の日本人として素直な心で読むならば、日本は防衛のためだろうが何だろうが一切の武力行使(つまり戦闘行為=戦争)は出来ないし、そのために一切の武力(つまりは兵器とそれを備えた軍隊)を持つことはまかりならんとしか読めない。これは中学生が読んだって分かるくらい明白な事だ。そしてこの憲法9条に関して、俺はやっぱり変えた方が良いと思っている。自分の国は自分で守るべきで、そのために必要なら自前の軍隊も持つべき、という考えだ。ただし、日本が掲げる立憲主義はあくまでも厳格に貫かなければならない。つまりは憲法を改正する際にも憲法に定められた手続きに則って行われなければならないと考える。
この俺の立場に立てば、安倍政権の推し進める今回の安保法案には当然のことながら反対である。なぜならそれが憲法が認めていない戦闘行為を可能にしようとするものだからだ。 
 
しかしこの法案に反対する一方で、俺はこの件に関しては野党を含め現在あるどの政党も積極的に支持する気にはなれないのだ。
上で述べた俺の憲法解釈に従うなら、自衛隊の存在はまぎれもない憲法違反だ。自衛隊は多くの軍艦や戦闘機や戦車やミサイルを備えていて世界でも屈指と言われる兵力を持つ。これが軍隊じゃないとか武力じゃないとか言い張るのは欺瞞以外の何物でもない。
実は俺は、日本人の大半がこの欺瞞を認めているから今日まで自衛隊が存続しているのだと、つい最近まで思っていた。「憲法は自衛のための武力保持までは否定していない」なんてのは、どう考えても憲法9条と矛盾していると俺自身は思うけど、世間の人はそれが矛盾だと思ってないんだと考えていた。
だから、今回の法案に関する報道で憲法学者の大半が自衛隊が違憲だと考えているというアンケート結果を知って、俺はびっくりしたのだ。だって、自衛隊の違憲性を認めながらその存在を容認するなら、それは憲法をないがしろにすることであり、立憲主義の否定につながるのじゃないか?
そう。どう考えても憲法違反の存在である自衛隊の存在を認めながら、一方で憲法9条も変えないという態度は、明らかに矛盾したものであるし、その矛盾を放置したままにするのは憲法をないがしろにする態度と言わざるを得ない。そう考えるなら社民党や共産党といった「護憲」を標榜する政党の主張も、実は憲法を踏みにじるものと言えるのではないか。
このことに思い至れば、我が国の憲法がもうずいぶんと長きにわたり保守と革新双方の勢力から痛めつけられボロボロに傷ついていることに気付かされる。日本国憲法はこれまでも全く守られてなんていないし、それどころか既にボロボロの状態なのだ。

本来、憲法(9条)と自衛隊の存在は相容れないものだ。ならば憲法を守るためには二つに一つしかない。自衛隊を解体して全ての兵器を破棄するか、憲法を改正するかのどちらかである。
憲法を改正することは決して憲法をないがしろにすることではない。なぜなら、時代の要請に応じて憲法を改正することは、他ならぬ日本国憲法自体が認めているからだ。憲法96条にはちゃんとその手続きが定められている。大事なことは改正にあたって憲法が定めたその手続きにきちんと従う事。その手続きを厳格に守る事こそが真の意味で「憲法を守る」ことになるのだ。逆に、定められた手続きを踏まずに「解釈改憲」によって集団的自衛権に踏み込んだり、自衛隊という名の軍隊の存在を有耶無耶のうちに認めることは、立憲主義の否定であり、ひいては法治国家としての基盤を揺るがすものだと俺は思う。
 
安保法案に関する今回の議論についてもう一つ俺が思うのは、事が憲法という日本の根幹にかかわる事であるにもかかわらず、それに関する議論があまりにも近視眼的過ぎるということだ。
憲法改正に関わる議論なら本来それは国家100年の計に基づいたものでなければならないはず。しかし今回の立法の必要性に関して与党が専ら強調するのは中国や北朝鮮の脅威で、一方集団的自衛権のパートナーとして想定されているのはアメリカだ。だが中国が日本の軍事的脅威になっているのは尖閣諸島の問題がクローズアップされてきたついここ数年のことだし、アメリカは70年前まで戦争していた敵国じゃないか。世界情勢の変化に応じた憲法改正が必要だとしても、そのための議論が目先で起きている事態への対応に追われるばかりでは拙速のそしりを免れまい。一旦改正するとなったら、たかが数十年程度の時の流れに耐えられないような憲法では困るのだ。
 
だから憲法改正に当たってはそれ相応の慎重さが必要だし、そのためにこそ憲法96条には改正のための高いハードルが設定されている。衆参両議院の3分の2以上の賛成と国民投票における過半数以上の賛成だ。本気でこのハードルをクリアしようと思う政党は、国政選挙で公約として掲げ、同時にその改憲の中身を草案として公表する必要がある。それでも一回の選挙では改憲に必要な支持は得られないだろうから、数回の選挙を通して継続的に国民に訴える必要があるだろう。憲法改正とは、本来ならそうやって10年スパンの長い議論を経て扱われるべきテーマであるはずなのだ。
 
現在、国会前で行われているデモの報道を見ると、自分が3年前に参加した脱原発デモの事を思い出す。当時は俺自身デモに参加するのも初めてだったし、数万人単位の人間が時の政権に抗議するムーブメントを目の当たりにするのも初めてだったから、自分たちが声を上げることで再稼働の流れを実際に止められると思っていたし、それが社会人としての責務のようにも感じていた。しかし今、世論は依然として原発に否定的な意見の方が主流だと思うが、それでも過去3回の国政選挙を経て現実に政権の座にあるのは原発推進の自民党であり、川内原発の後も続々と原発を再稼働させようとしている。
 
学生たちの集まりであるSEALDsの活動から始まった安保法案反対デモに関する報道でも、あの脱原発デモの当時よく耳にしたフレーズが使われる。曰く「既存の政党組織とは無縁の市民による活動」「〇〇さんなどの有名人や各界著名人もスピーチを述べた」「ベビーカーを押した家庭の主婦や、会社帰りのサラリーマンなど“普通の人達”が参加するデモ」。そしてそれらのフレーズには往々にして「かつてのデモには見られなかった」とか「これまでにない」といった修飾語が用いられる。まあ、彼らが決して自民党の某議員が決めつけたような「過激派・チンピラの連合軍」などでないのは事実だろうが、一方で脱原発デモに参加した俺にとってそれは決して「これまでになかった」事態ではないし、むしろ警察発表と主催者側の発表で大きく異なるデモ参加者の人数までがまさにあの時のままだ。
 
そしてその反安保デモの参加人数に関して、橋下徹は「こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」と発言した。ちなみにウィキペディアで調べたらサザンの一公演での最高観客動員数は8万人だそうだから、橋下の発言は厳密に言えばは的外れかもしれない。しかし参加者が10万人以上と聞いて俺自身も気分を高揚させたあの脱原発デモや今回のデモの参加者も、言われてみればサザンのコンサートに来るお客の数とそう大差はないわけだ。ましてや、コンサートのお客がわざわざ金を払って聴きに来ているのに対して、デモの参加者は交通費のみの無料参加だ。脱原発デモや反安保法案デモに参加した人達は、日本を放射能の危険から守ろうとか日本の立憲主義を守ろうとか、それぞれに真剣な思いや切実な危機感を抱えていたに違いない。しかしそうした彼らの思いや熱意の総体を単純に参加者の人数で比較するなら、それは「金を払ってでもサザンのライブを聴きたい!」と思った人達のそれと大して変わらないことになる。そう考えればマスコミやデモ主催者が強調する十数万人という参加者は決して多い数とは言えないだろう。
 
ちなみに、今年1月にパリで行われたテロに抗議するためのデモは軽く100万人を超えたそうだ。これは日本とフランス、東京とパリに元々住んでいる人の数を踏まえて比較すれば、その差が更に歴然たるものであることがわかるだろう。
俺も安保法案に反対する者の一人として、運動に水を差すようなことは言いたくはない。しかし激励の意味も込めて敢えて言わせてもらうなら、デモの人数を誇示するならせめてパリの半分の人間を集めてからにしてもらいたい気はする。それくらいの気概が無いと、仮に成立後に安保関連法を廃止に追い込むにしても結局は失敗するんじゃないかと思う。
 
現在、安保法案は参議院での審議が始まろうとしている。野党は参院・衆院の審議を通して徹底抗戦するようだ。小沢一郎は「内閣不信任案を提出して、趣旨説明に3日でも4日でもしゃべり続ければいい。そうすれば時間切れで廃案だ」と息巻いているそうだが、どこまでやれるか疑問ではある。俺としては法案の廃案は望みながらも生温かい眼差しで見守りたい心境だ。

憲法が踏みにじられて、首相が国会答弁で詭弁を弄し、有耶無耶のうちに成立しようとしている戦争法案に対し、個人的に憤りを感じないと言えば嘘になる。ただ、今の俺にはデモに参加して脱原発を叫んだ時の様な気力はすっかり失せてしまった。そういうのはもうSEALDsの学生さんとかの若い人達とか、年寄りでも俺なんかより能力と社会的影響力と気力と体力を持ち合わせた人達にお任せしたいというのが偽らざる気持ちだ。いい大人としては甚だ無責任なようで申し訳ないけどね。

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寒四郎紅白

今年の紅白歌合戦の出場者を見ていたら、見たい歌手がほとんどいなかった。相も変わらずNHKの他番組関係者を無理矢理ねじ込んだり、また48関係ばかりが馬鹿の一つ覚えみたいに何組も出たりと、今年は例年にも増して酷い人選に思える。
しかし、今更俺がここで文句を言ったところで何が変わるわけでもない。なのでこの際だから寒四郎版の紅白歌合戦をWEB上で勝手に開催することにした。
出場歌手の選考基準は今年俺が良く聞いた歌。曲名のリンクをクリックするとその曲の動画に飛びます。

それほど特別好きというわけでもないのだが、なぜか今年の初め頃によく聞いていた曲。訳詞を読むと歌詞もなかなかカッコイイ。
紅組『トルコ行進曲』(由紀さおり&安田祥子)
国際的なネームバリューでは日本人歌手でも屈指の存在と言えるであろう由紀さおり、お姉さんとのデュオによるスキャット。
白組『パフ』(ピーター・ポール&マリー)
これまでにも聞いたことはあったが、最近になって初めてちゃんと聞いた。アコースティックギターと優しい男性ボーカルが癒し系。
最近日本ではアキアカネ(赤とんぼ)が激減しているそうな。そんなニュースから思い出した曲。曲もボーカルの声も好きだが、特に切ない歌詞が秀逸。
白組『1969年のドラッグレース』(大瀧詠一)
昨年末に急死した大瀧詠一を偲び、関連動画を探すうちに見つけた、映画『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』のワンシーン。曲も懐かしいが映像のセンスも良い。
紅組『ダンドゥット・レゲエ』(CAMPUA DKI)
↑の動画の関連で見つけた、同じく『私が好きな歌』のワンシーン。ダンドゥットというのはインドネシアの大衆音楽のジャンルだそうで、それにレゲエの要素を加えた曲。
パワフルなボーカルと心に響く歌詞が印象的。
紅組『道』(Yumirose)   
NHK『みんなのうた』より。レトロ感あふれるサウンドとその曲に見事にマッチした映像が見もの。高音のボーカルは好き嫌いが分かれそうだが、それも慣れればクセになる。
彼の代表曲でもある『THE SCATMAN』とどちらにするか迷ったが、こちらの方が映像も好きなので選出。 
倉橋ヨエコは『今日も雨』が実は一番のお気に入り。しかしここは「今年聴いた曲」に敢えてこだわってこの曲を選出。どちらも歌詞がスゴイ。 
白組『スカボローフェア』(サイモン&ガーファンクル)
高校の頃によく聞いていた曲だが、今年になってマイ・リバイバルブームが来た。特にシュールな歌詞に改めてハマる。
大トリは断然この人、川本真琴。 一世を風靡した1stアルバムの発売が1997年、今から17年前の事。その後、ここ10年くらいはほとんど目立った活動はなかった。しかし今年、神聖かまってちゃんに参加して出したこの曲では、20年近い時を経て全盛時の川本真琴そのままのパワーと若々しさで完全復活して見せた。正直、今年40歳になった彼女からこれほどの歌声を聞く事が出来るとは思ってもみなかった。スゲェよ川本。40にして青春ど真ん中って感じだ。全盛時を知る者としては思わず脱帽、そして大感激の一曲。

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禁酒一カ月

8月末日から9月いっぱい、ちょうど一カ月(31日間)の禁酒をした。
何か酒で大きな失敗をやらかしたとか、健診で肝機能の数値が極端に悪かったとかそういう特別な理由があったわけではない。強いて言えば、以前読んだ吾妻ひでおの『アル中病棟』を読み返したのがきっかけといえばきっかけ。

作者の吾妻ひでお自身もそうだが、この漫画には1年以上、中には10年以上一滴の酒も飲んでいない「アル中患者」が何人も出てくる。それだけ長年にわたって断酒を続けても彼らがアルコール依存症であることは変わらない。10年断酒した人でも一度再飲酒すれば元の木阿弥で、必ずまた酒を止められなくなってしまうからだ。これをかの業界では「スリップ」と呼ぶ。アル中というのは不治の病で、一度かかってしまえば何年酒を断とうと元の健常者に戻ることはないというのが専門家や患者の間の常識らしい。
つまり単に酒を飲まずにいられるというだけでアル中であるか否かを判断することは出来ないわけで、そう考えればもしかしたらこの俺も自分ではそれと気づかぬまま既にアル中になってしまっている可能性も否定出来ないことになる。5年前の記事『酒をやめようかと考えてみる』にも書いたが、以前から俺は自分がアル中予備軍であると自覚してきた。それが実は予備群ではなく、既にアル中なのではないかとの疑念を抱いたわけだ。

俺は毎晩晩酌をするようになってかれこれ20年近くになるだろうか。今でも月に2~3日は飲まない日もあるが、まとまって酒を断つのは7年前に2週間ほど入院する機会があって断酒したのが最後だ。ましてや一カ月以上酒を断つとなるといつ以来の事になるのか記憶が定かでない。
俺にとっての夕食とはすなわち晩酌のことで、そこで食べるのは酒の肴でありビールのつまみだ。そのため晩飯に作るメニューも炒め物やら鍋物やら居酒屋のメニューに近いものばかりになる。(第三の)ビールを飲むため糖質過多にならぬよう、夕食には御飯やパン、麺類などの炭水化物はなるべく摂らないようにしている。仕事が深夜にまで及ぶような時は途中でカップ麺などで腹を満たしておいて、仕事が終わってからやっぱり晩酌をする。そんな食生活を20年も続けているうちにいつしか酒無しでは夕食を楽しめなくなってしまった。

食事に限ったことではない。俺にとっては野球をはじめとするスポーツ観戦にもビールはつきものだし、漫画を読むのも酒を飲みながら。カラオケで歌うのも酒なしではほぼ無理だし、旅行では目的地に向かう電車の中でまず一杯、といった具合で娯楽の供にはほぼ酒が欠かせない。ほろ酔い加減の程よい精神の開放によって、スポーツ観戦はよりエキサイティングになるし、ギャグ漫画はより面白く感じられるし、列車に揺られながら飲むビールは一層旅情を掻き立ててくれる様な気がする。そうして俺はこの20年位の間に、何事につけ酒を飲むようになっていった。

現在の酒量は第三のビールをレギュラー缶で一日平均5本程度。2年前から肝機能の数値γGTPが保健指導値(51)を超えて去年は67になった。もっとも、病院に入院するようなアル中患者と較べればこの数値なぞ可愛いもので、彼らの中にはγGTPが500とか1000といった猛者が当たり前の様にいるらしい。いや、比較対象をアル中病棟の患者にするのがそもそも間違いで、一般人の感覚で言えば基準値を超えた時点で決して褒められた事ではない。だからこの数値を基準値以内に戻すのも今回の禁酒の目的の一つである。
まあそんなこんなで俺としては自分がひょっとしたらアル中なんじゃないかという不安を少しでも払拭するために、とりあえず一カ月酒を我慢出来るかどうか試しに禁酒してみた次第。ちなみにネットで出来るアルコール依存症チェックの判定結果は3点「アルコール依存症の要注意群」と判定された。

で、結果として一カ月の禁酒には何とか成功した。この間、まあ当然だが酒を断ったからといって離脱症状(いわゆる禁断症状)が起きるわけでもなく、禁酒の苦しみで暴れたり叫んだりすることも無く、ほとんど苦も無く禁酒出来たと思う。
ただ、特に夜は酒を飲まないとやっぱり間がもたないというか、食事を終えて何となく手持無沙汰な時などに「ビール飲みたいな」と思うことはあった。また夕食にしてもおかずが旨く出来た時ほど御飯でなくてビールが欲しいなあとは思った。

永年習慣としていた晩酌をやめることで、食事の摂り方もこれまでとは多少勝手が違っていた。晩酌のビールが白飯に変わっても作るおかずは同じメニューなのだが、ビールの肴として作るメニューは飯のおかずとしては若干薄味のものが多い。それで味が物足りないと感じることもあった。それに、ビールの肴にはなるけれども飯のおかずとしてはイマイチっていうメニューも結構ある。例えば冷やしたトマトをスライスして塩をふりかければ居酒屋でもお馴染の冷やしトマトという肴になるのだが、これを晩ご飯のおかずとして食うのはちょっと侘しいものがある。それでこの間晩飯のメニューには結構頭を悩ませた。麻婆豆腐とか親子丼とかすき焼きとか、これまではあまり作らなかった御飯用のメニューにも取り組んでみたが、白飯に合ったメニューの更なる開発が今後に向けた課題と言える。
また、ビールならレギュラー缶で5本、1時間以上時間をかけてゆっくり飲みながら肴も結構な量を食べられるのだが、白飯は食べてもせいぜい茶碗に一杯だから、おかずもそれほど多くは食べられない。時間にして15分か20分。禁酒していたこの一カ月は晩飯に食べる量も品数も少なくなった。禁酒体験を綴った他人のブログなどを覗くと、禁酒のメリットとして「ダイエット効果」を挙げているものが少なくない。酒を飲めば食欲も増すからつい食べ過ぎてしまう。それが禁酒によって食欲も抑えられ、また酒と共に摂取していた糖質も控えることになるからダイエットになるというわけだ。しかし俺自身はさしあたってダイエットの必要は特に感じない。むしろ昼はカップ麺などの貧相な食事が多い分、夜は出来るだけしっかり食べたい気持ちがある。夕食にビールがあればそれなりに栄養のバランスも考えた肴を揃えて食事を楽しむ事が出来るのだが、白飯だけではどうも今一つ味気なくて丼物をひと品だけ作ってそれをカーッとかき込んで済ませてしまったりする。
ビールの代わりに冷たいお茶を飲んでみたりもしたが、やっぱりビールの代わりにはならんし、かと言って禁酒しながらノンアルコールビールを飲むってのも、なんか酒に対していかにも未練がましいようでいかがなものかと思う。

一方、酒を飲まないことで良い事ももちろんあった。とりあえず以前よりは夜ぐっすり眠れるようになった気がする。
俺は酒を飲もうが飲むまいが布団に入ってから眠れないということはまずない。眠るのはいつでもすぐ眠れるのだが、酒を飲むとどうしても夜中に目が覚めて便所に行くことになる。また寝ていても喉が渇くので枕元にペットボトルの水を用意してしょっちゅう飲むことになる。それがまた便所を近くする悪循環を生んでいた。そうして寝入っても朝の4時や5時といった早朝に目が覚めてしまうことが多かった。
だが酒を断ったこの一カ月は夜中に喉が渇くことも無かったし、便所に立つことも少なかった。そしてうっかりすると寝過ごしてしまいそうになるほど朝までぐっすり眠ることが出来た。

ともあれ、一カ月の禁酒に無事成功して一昨日は晴れて待望の晩酌を楽しんだわけだが、この一カ月間楽しみにしていた割には、久しぶりに飲んだ「バーリアル糖質50%OFF」は期待したほど旨いものではなかった。決して不味くはないのだが、この日のために肴も若干奮発して用意したのに、前日から冷蔵庫に入れてキンキンに冷やしておいたバーリアルは拍子抜けするほど普通というか、特に感慨も無いまま6本を飲みきってしまった。

そして一夜明けた昨日、一カ月の禁酒を終えて、これから俺は以前と同様に酒を飲むのだろうかと考えてみた。
二日酔いという程ではないのだが、前日に多少飲み過ぎたこともあり、昼間のうちは今日も酒を飲みたいという気持ちはあまり起こらなかった。「これから先も別に飲まなくてもいいな」と思えた。そう、別に無理に飲む必要などないし、飲まずに済むならそれに越したことはないのだ。だから夕方に晩飯のための買い物に行っても晩酌のビールを買ってくることはなかった。
だが夜になってみるとやっぱり「ビール飲みたいなあ」という気持ちがむっくりと起こってくる。酒を飲まないということは、俺にとってやはりまだ多少なりとも我慢を要することなのは間違いないようだ。

上にも書いた通り、たかだか一カ月ばかり酒を飲まずにいられたからといってアル中でないとは言い切れない。上記のブログ記事にも書いたが一カ月禁酒した程度ではアル中の予防にもほとんど意味をなさないと思う。アル中は10年、20年という長いスパンで徐々に進行していく病気であり、そうした長い年月から見れば一カ月の禁酒など屁の突っ張りにもならないからだ。
それでも、誰に言われるでもなく自ら禁酒を思い立ち、一応一カ月の禁酒を達成した俺の現状は、アル中病棟の入院患者などと較べたら、客観的に見てまだまだアル中と呼ぶには程遠いだろうなとは思う。

だが、一方で上記リンク先にある新久里浜式スクリーニングテストの結果が示す通り、俺は「アルコール依存症の要注意群」であることは間違いないのだろうし、俺自身、自分がアル中予備軍であろうという不安は依然としてぬぐえない。と言うか、むしろぬぐわない方がいいのかも知れないしね。

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自動運転車(スマートカー)の時代がやって来た!?

日産のCEO・ゴーンさんが、何気にスゴイ事を言った。なんと4年後の2018年にも日本やアメリカ、フランスで自動運転の車(いわゆるスマートカー)が実用可能だというのだ(記事)。
自動運転、つまりは人がハンドルやブレーキを操作しなくても勝手に走って目的地まで行ってくれる車が4年後にも公道を走るというのだ。ゴーンさんは更に「無人運転」にまで言及している。つまりは人を一人も乗せることなく車だけが走るってことか(ホントかよ!?)。まるでSFの世界じゃないか。
ペーパードライバーの俺でも世の中で衝突軽減ブレーキとかその手の技術が実用化されているのは知ってるが、自動運転なんてまだずっと遠い未来の事だと思ってた。4年後と言えば、既に世間を大いに騒がせている東京オリンピックよりも更に2年も手前の事だ。もう「近未来」なんて生易しいもんじゃなくて目と鼻の先にある現実と言っていい。これがどこぞのサイエンスライターが書いた三文コラムなんかなら鼻で笑って済ますところだが、発言してるのはれっきとした自動車メーカーの経営者、それも世界に名だたるルノーと日産のトップを兼ねる御仁なのだから、単に夢のある絵空事として片づけるわけにもいかない。

もっとも、ゴーンさんは必ずしも4年後にスマートカーが実用化されると断言しているわけではない。というか、ゴーンさんは技術的な課題よりむしろスマートカーで事故が起きた際の責任の所在など、法整備の方が問題だと言っている。技術的な課題は既に解決済みと言わんばかりだ。
それにしても、本当に4年後にそんな事が起こるのだろうか? もし本当に自動運転車が実用化されたら、日本中のトラックドライバーは失業の危機に直面するかも知れない。トラックだけではない。下手をしたらバスやタクシーまで全て自動運転になってしまうかも知れない。いやそれどころか極端な話、運転免許自体がもはや無用の資格制度ということにもなりかねない。要するにゴーンさんの発言は、4年後とは言わないまでも近い将来、マイカーを含む車という車が全て自動運転になる可能性を示唆しているのだ。その影響はドライバーの失業ばかりではない。流通コストが安くなればそれは物価を通して消費者に恩恵をもたらすかも知れないが、それだけじゃなく世の中のモノや人の流れとか、人々の移動に関する意識そのものを根本的に変えてしまうかも知れない。いずれにしても、それは良きにしろ悪しきにしろ、経済はもちろん社会全般に並外れた影響を及ぼすに違いない。

自動運転車が当たり前に普及した世の中とは一体どんなものだろうか?
運転席に誰も居ない車が街を走る。乗ってる人間は車内で居眠りをしようがテレビを見ようが酒を飲もうがやりたい放題だ。そうなると移動手段としてこれまで電車を選択していた利用者の相当数がマイカーに流れるかも知れない。朝夕の通勤ラッシュは緩和されるかもしれないが、代わりに道路は渋滞するかも知れん。
バスは誰も居ない運転席で、まるで透明人間が運転しているかのごとくハンドルだけが右に左に動いて終点を目指す。自動運転というハイテクが実現する未来像にしては何だか背筋がうすら寒くなる光景ではある。もっとも、そうなるともう運転席もハンドルもアクセルやブレーキのペダルも一切が車に不用のものとなるのかも知れないか。いや、公道を走るぶんには問題なくとも、例えば駐車場なんかで所定の場所に停めたりするのは機械だけじゃ難しいだろうから、やっぱり「手動運転」の機能も残しておく必要はあるだろう。てことは、自動運転車といえどもやっぱり運転手はいなくちゃだめか。まあ、駐車場なんかではその時だけ係員が運転すれば済む事かも知れないが。
それと、運転手はともかく、全く人のいないまま車を走らせる無人運転にはさすがに無理があるだろう。例えば、無人トラックに荷だけを積んで目的地に向かわせたら、途中でトラックごと盗難に遭う危険を考慮しなくちゃならない。つまりは、運転は出来ないまでも最低限車を管理する責任者は必要だってことだろう。

俺が子供の頃に絵本や雑誌の挿絵なんかに描かれた未来の社会には、例えば空中を自在に飛び回る「車」や、透明なチューブ状の高架道路の中を高速で移動するカプセル状の「車」が描かれたりした。しかし今、4年後の日本の街の風景の中に思い描く自動運転車の姿は、そうしたきらびやかな未来像とはかなりかけ離れたものだ。
というか、4年後に自動運転車が街を走る想像をしてみても俺には全くリアリティが無い。YouTubeでこんな動画 を見てもまだ、その光景を自分の実生活に当てはめることはなかなか難しい。それは多分、俺自身がまだ自動運転で走る車というものを実際にこの目で見たことが無いからであり、更には車は人が動かすものだという固定観念から未だ抜け出せないからではないかと思う。
そしてこの固定観念から抜け出せないのは恐らく俺だけではない。世間の大多数の人はいまだに車は人が運転するものだと当たり前に思っているだろうし、「いやこれからは機械がひとりでに走って人や物を安全に運んでくれるのだ」と聞かされても、その安全性に全く疑念を抱かない人はそう多くはないだろう。だが、その疑念こそが恐らくゴーンさんの言う法整備にとって最大の障壁になるに違いない。つまり、自動運転車の実用化のために今最も必要なのは、世の人々の心にその安全性に対する信頼を醸成し、同時に車は人間が運転するものだという固定観念から脱却させることであるはずだ。

もしそうであるなら、一つゴーンさんに提案したい事がある。それは自動運転車による大規模なカーレースである。
モータースポーツが本来持つ大きな目的の一つは、各メーカーが参加して自社製品の性能を競うことによる技術力の底上げにあるだろう。自動運転の技術が既に実用可能の域にまで達しているとしても、各メーカーが1着を目指してしのぎを削るレースは、テストコースを走るのとはまた違った、より実践的なテクノロジーが求められるはずだ。そうしたレースを定期的に開催して、その成果を消費者にアピールすることは、世間一般に自動運転車の技術力を認知させることにも大いに寄与するに違いない。

車体は出来るだけ市販車に近いツーリングカーとして、多数の車が同時に走るロードレースを行う。世界の主要自動車メーカーからワークスチームの参加を募ればファンの関心も高まるだろう。
そこで無人の自動運転車がプロのドライバーの顔負けの高速レースを無事故で走る事が出来たなら、自動運転の技術を認めてやってもいいのではないかと個人的には思える。例えば、自動運転車が富士スピードウェイや鈴鹿サーキットでプロの著名ドライバーたちが持つコースレコードを破るようなことがあれば、それは何にも勝る自動運転車の技術力の証明になるだろう。

俺自身はモータースポーツには疎く、たまにテレビなどでレースを見てもそれほど面白いものだとも思わない。どちらかというとクラッシュシーンばかりに目が行って悲惨な事故に「うわぁ、ひでぇな」とか言いつつ見てしまうタイプだ。
しかしそんな俺の様な悪趣味なモーターファン(というより単なる野次馬)にとっても自動運転車によるレースは見ごたえ充分なものになるかも知れない。なにしろどんなに派手に事故っても人が死ぬことは無いのだから、ある意味ぶつけ放題なわけだ。むしろ従来のレースでは見られないようなクラッシュの連続でお客が集まるかも知れない。

もっとも、それじゃあ自動運転の安全性の証明にはならないのだろうが・・・。

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2013年

まあ、今年も残すところあと1日ということで、日記代わりにこの一年を振り返ってみようかなと。気が付けばこのブログも5月以降一度も更新してないし、それが今年書いた唯一の記事だから、枯れ木も山の賑わいだ、内容はともかくせめてもう一本くらいは記事を残してもいいだろう。

このブログでも以前は年末に一年を振り返る記事を書いたりもしたのだが、中年孤男の一年なんて振り返ったところで取り立てて書き留める様なことは何も無い。結局毎年愚痴に終始するような記事になりがちだったから、いつしか書かなくなってしまった。
今年も例年同様何もないと言えば何も無い一年だったのだけど、一方では何だかいろんなことがあったような気もする。いや、実際俺の身の回りには本当に何も無かった。というかむしろこの一年は、俺にとっていつにも増していろいろなものが失われていく一年だった気がする。

構成の仕事は今年ついに一本も無かった。ゼロである。別に廃業宣言したわけじゃないが(てか宣言しても聞く相手もいないしな)構成作家としては実質廃業に追い込まれたと言っていいだろう。
もちろん収入も減ってそれも痛手には違いないのだが、それ以上に仕事を失ったことで俺自身のアイデンティティが地味に痛めつけられているような気がする。「仕事が生き甲斐」と言うほど熱心に働いてきたわけじゃ決してないが、仕事の他に生き甲斐らしきものが何も無かったことを改めて思い知らされる。養うべき家族も無ければ財産も無い。この上仕事も無いとなったら一体何のために生きているのか。
今は一人暮らしのアパートに籠もりながら、誰に言うでもなく「人生」などという言葉をぶつぶつと呟く日々である。

夏のある日、かつて俺が得意先にしていた会社のスタッフからえらく久しぶりに電話が来たと思ったら、そこの社長の訃報だった。
もう20年近くの長い付き合いではあったし、沢山仕事を貰って世話になった人ではあるけれど、俺の中にそれほど特別な感情は無い。ギャラのことで揉めたことも何度かあったから、そういう意味でむしろ生前はその社長に対してネガティブな感情の方が強かったけど、それほど恨んでいるわけでもない。プロデューサーなんて多少なりともみんなそんなもんだしね。それを身をもって俺に教えてくれた人でもある。
ただ、かつて一緒に仕事をした人が亡くなったと聞かされると、悲しみとは違った感傷というか、しみじみとした寂寥感の様なものは禁じ得ない。こうしてだんだん俺の前からいろんな人がいなくなっていくのかなと。

その通夜に参列した際、以前仕事をもらった局のプロデューサー達とも顔を合わせたのだが、彼らと目が合ってこちらが目礼してもことごとく無視された。側へ寄って話しかけようとしてもこちらを避ける様に離れて行く。いくら既に用済みとなった作家でも、挨拶くらい交わしたってバチは当たらないだろうに。そこまでされる理由を帰ってからあれこれ考えてみても納得のいく答えは見つからない。いずれにしても、少なくとも今後彼らから再び仕事が来る可能性は無いのだろうと改めて思い知らされるのみ。
10年以上同じ番組で仕事を続けてきても切られる時はこんなものかね? いや、出来る作家なら日頃から仕事先ともしっかり人間関係を築いて、たとえ切られてもきちんと次の仕事に繋げるのだろう。全ては俺自身の身から出た錆。とにかく、今さら何を言っても虚しいばかりだ。

テレビの仕事はなくなって、物書きとしてもグルメガイド本や企業広報誌の仕事をわずかにこなしたのみ。単位労働時間当たりのギャラは以前の5分の1位か。
どうせ雀の涙の報酬なら、こちらとしても気楽にやらせて貰おうと思ったのだが、仕事となると実際にはそうもいかず、慣れない現場での取材にもたつくことも少なくない。そんなところを取材先の飲食店店主やカメラマンに見透かされると更に仕事がやり辛くなる。要するにリストラの結果慣れない部署に配置転換された中年サラリーマンの図式だ。
それでも養う家族のあるサラリーマンなら、石に噛り付いてでも定年まで勤め上げるようと考えるのかも知れないが、俺には最早そこまでして安い仕事にしがみ付く動機も気力も全く無い。
今はただ気が向いた時にやれそうな仕事があればやるだけ。それ以上の無理をするのはもう御免だ。

学生時代からの知人と縁を切った。
もともと話すことの8割が愚痴という男で、精神障害の持ち主。もう10年以上こちらからは連絡したこともない相手なのだが、それでも向こうからはしょっちゅう電話がかかって来るし、俺も特に迷惑な時以外は応じていた。
障害があるとはいえ普段は健常者と同様に接する事が出来るし、彼の愚痴に対してまともに取り合っていてはこちらにストレスがたまる一方なので、それまでは彼に対して言いたいことは遠慮なく言ってきたし、しばしば辛辣な言葉も浴びせてきた。
しかし半年ほど前、他人に話したら呆れられる様な本当に下らない事をきっかけに、彼が電話口で俺に対してブチ切れた。こちらが何を言っても絶叫を繰り返す文字通りの発狂状態。彼にしてみればそれまでにも俺に対して相当溜め込んだ鬱憤があったのかも知れないし、ここ1~2年は病状も悪化して入退院を繰り返すような状態だったから、第三者から見れば俺の方に非があるのかも知れない。だが、これまで彼と付き合う中で俺の側にも彼に対してそれなりに腹に据えかねるものはあった。その後、彼からメールで謝罪されて一時的には元の関係に戻ったが、それを境に俺はこれ以上彼とは付き合いきれないと感じて、秋以降彼からの電話にもメールにも一切応えないことにした。

永年行きつけにしていた飲み屋が店を閉めた。
通い続けてもう20年近くになる。店のマスター夫婦は友人の少ない俺にとっては貴重な話し相手でもあった。9.11のテロの第一報をその店のテレビで知ったり、いろいろと思い出もある店。ここ数年は経済的な事情から足が遠のいていたものの、年に数回は顔を出していた。
それがある日店の前を通ったら「閉店しました」の貼り紙。その一月ほど前には店の前でマスターと会って挨拶もしてるのに店を閉めるなんて一言も言ってなかった。知ってたら閉店の前にもう一度行きたかったのに。
でも、これもやっぱり身から出た錆。俺自身の不徳の致すところなんだろう。

失うものなどほとんど持ち合わせてないと思っていた俺の前から、ぽつりぽつりといろんなものが無くなっていくこの一年だった。
結構大きな喪失感や、地味で小さな喪失感や、それほどでもないけど意外と小さくも無かった喪失感、そのどれもが消えることなくどんよりと俺の上に積み重なっていく一年だった。
しかしそれもこれも身から出た錆。誰を恨むわけにもいかないし、かといって今さら自分を責めたところでこの先俺の人生がどう変わるものでもない。
そう、全てはきっと俺が生まれた時から決められていた運命なんだろうなと、最近はそう思うようになった。これでも若い時には運命論て大嫌いだったんだけどねw

運命に逆らってみたところでただ虚しいだけだ。
デモに参加して声を限りに脱原発を叫んでみても再稼働の流れは止まらない。秘密保護法だって反対したところでどうせ無駄なんだろう。だからもう勉強することもしない。がむしゃらになって働いても、腹の底からこみ上げる怒りや悲しみも、実は本人の意思とは別にどこか高い所にいる誰かの掌の上で踊らされているに過ぎないんじゃないかと思う。何かのためにどんなに頑張っても、どんなに腹を立てても、結局は自分がどれほど無力でちっぽけな存在かを思い知らされるだけだ。

右を見ても左を見ても今は全てが色褪せて見える。
人生の虚しさや諸行無常をつくづく思い知らされる一年だった。


書き始める前はこんな陰鬱な記事になるとは思わなかったのだが、これが偽らざる俺の2013年だったってことで如何ともし難い。

ともあれ今年はこれでおしまい。
今日、実家に帰るのでコメントへのレスも正月が明けるまでは出来ませんのでご了承下さい。

それでは皆さん、良いお年を。
来年もどうぞよろしく。

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橋下発言と政治家の言葉

橋下徹維新の会代表の従軍慰安婦と沖縄の米軍に関する風俗推奨発言。その是非をめぐる議論もさることながら、この発言に対する与野党の政治家のコメントを比較するのがなかなか面白い。橋下発言に対するスタンスや発する言葉から各政治家の人間性が浮き彫りにされるのだ。

まずは問題の発端となった橋下市長の発言から。
旧日本軍の従軍慰安婦に関して:「あれだけ銃弾が雨・嵐のごとく飛び交う中で、命を懸けて走っていく時に、猛者集団、精神的に高ぶっている集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度というものが必要なのは誰だって分かる。」
沖縄の米軍司令官に対して:「法律の範囲内で認められている中で、性的なエネルギーを合法的に解消できる場所は日本にあるわけだから、もっと真正面からそういう所(風俗業)を活用してもらわないと、海兵隊の猛者の性的なエネルギーをきちんとコントロールできないじゃないですか。建前論じゃなくて、もっと活用してほしい」
子だくさんに加えコスプレ不倫スキャンダルでも世間を賑わした政界きっての絶倫王(?)の発言だけに、その主張には妙に切実な響きがある。二つの発言に共通して「猛者(もさ)」という言葉が使われているのも笑い所として何気に高ポイントだ。
いや冗談は抜きにして、米軍に対して風俗を推奨する下の発言は個人的には支持出来るし、共感を覚える世の男性は少なくないのではないか。橋下発言に対して米軍の司令官は「禁止している。行くなと通達を出しているし、これ以上この話はやめよう」と打ち切ったそうだ。だが、沖縄で後を絶たないアメリカ兵の性犯罪を減らす一助にもしなり得るのなら、その禁を解くのも一考に値するのではないか。そういう意味でこの橋下発言は一つの問題提起として意義を持つと思う。
一方、慰安婦に関しては、やっぱり証拠が無いとは言っても、実際は嫌な相手でも実質的には拒否出来ないこともあったかも知れないし、ある程度の強制性があったろうことは想像に難くない。そういう意味で当時の慰安婦という制度は少なくとも積極的に評価されるべき性格のものではないだろうとは思うし、それが本当に軍に必要欠くべからざるものであったかも断定は出来ないだろうと思う。


さて、そんな橋下発言に対する各党政治家のコメントがこちら。

市田忠義(共産党書記局長)
「さまざまな性奴隷制度の発言を聞いてきたが、本当に人間の血が流れているのだろうか、と戦慄(せんりつ)を覚えた。公党の党首の資格がないだけでなく、市長たる資格も国政を語る資格もない。これほど人間をおとしめる発言はない」「日本維新の会という政党の存立そのものが問われる重要問題」
対立する政党党首の失言と見るやここぞとばかりに口を極めて罵るタイプの発言で、要するに批判のための批判。「戦慄を覚えた」なんて表現もいかにも芝居がかってむしろ滑稽に聞こえる。こういう物言いからはその人の人間性の底が知れるというものだ。有権者の支持を得て国政に参加する公党に対して「政党の存立が問われる」とまで言っているわけで、それならそれで共産党としても維新の会に対して国会なりで相応の対応があって良さそうなもんだが、その発言にどこまで責任が持てるのか。あと「慰安婦」ではなく「性奴隷」という言葉を使っているけど、これは党としての共通認識なのかな?

福島瑞穂(社民党党首)
「戦争遂行のためには女性の人権を蹂(じゅう)躙(りん)しても構わないということになる。全ての女性の人権を侵害する発言で、激しい憤りを感じる。断固許せない」「(橋下の風俗発言は)買春を肯定するもので、性的暴行事件に苦しんできた沖縄をさらに傷つける。(買春を勧められ)米側もショックだろう」
元来が人権派の女性弁護士であるだけに、「女性の人権」といった手垢の付いた言葉もこの人の口から出ると他の政治家にはない重みがあるってのは分る。しかしそれにしてもこのコメントはちょっとありきたりじゃないか? コメント全体がいま一つ表面的で中身に乏しい感じを否めない。これじゃB級映画に出て来るフェミニズム活動家の台詞と大して変わらん。「断固許せない」といういかにも彼女らしいフレーズも、有権者には「あ~ハイハイいつものミズホ節ね」としか響かないのじゃないか? なぜそんな印象になるかといえば、批判がこの問題の核心部分に触れていないからじゃないかと思う。慰安婦問題に関しては強制性の有無などポイントとなる論点がいくつかあるわけで、この手の批判には、そうした論点を踏まえて橋下発言のどこがなぜ人権蹂躙なのかといった突っ込んだ論理が必要なんじゃないか。沖縄の米軍に対する発言では、橋下市長ははっきり合法的な風俗業に話を限定しているのにもかかわらず、故意なのかどうか知らないが福島さんはそれを買春と混同している点もいただけない。

海江田万里(民主党代表)
「慰安婦制度は必要ではない」「女性の人権を無視した発言。看過できない
これも内容的には福島発言とほとんど同じ。橋下発言に対して独自の視点や見識もない、いかにも御座なりなステレオタイプの批判だ。しかも福島さんほどの憤りも感じられない熱の無いコメント。民主党党首の発言でなければここで取り上げる価値も全く無い。あんたそれでも野党第一党の党首なのかと。それでなくても代表としては影が薄いのに、マスコミで紹介されるコメントにはもうちょっとヤル気見せろよと思う。つーかコメント短けえよ。せめてもう三言しゃべれっつの。

辻元清美(民主党副代表)
「この発言は『戦争遂行のためには女性の性を利用する必要がある』と言っているに等しく、女性への人権侵害だけではなく、男性への侮辱でもあると思います。国際的にも、政治家として『失格』の烙印を押される考え方です。 橋下市長は道徳教育の必要性を説き、国際的に通用するグローバル人材を育てる教育を掲げてきましたが、 ご自身がグローバルな人権意識に欠けるのではないですか。また、首長の考えを教育に反映させる必要があると『教育改革』を押し進めましたが、今回の橋下さんのような考えの首長が教育に介入すると問題だから、教育の独立性が重要視されてきたのではないですか。 『刺青検査』『職員のメールチェック』『日の丸・君が代強制』・・・規律と規範が大事だという彼の絶叫が、今でもむなしく思い出されます」
買春や風俗の是非という本質論にまで踏み込んでいないという点は福島発言や海江田発言と同じなのだけれども、橋下市長の過去の発言や政策と絡めて皮肉タップリにチクチクと責め立てている点は上記二人のコメントと較べて批判としてずっと効果的。論客としては党首である海江田さんよりよほど手強いだろうなと思わせる。

安倍晋三(首相)
「慰安婦の筆舌に尽くしがたいつらい思いに心から同情している。安倍内閣、自民党の立場とは全く違う発言だ」「20世紀は戦争の世紀であり、女性の人権が著しく侵害された。21世紀はそういう世紀にしない。われわれもその決意を持っている」
国会答弁なので答弁書に添ったものだろうし、首相という立場上、発言が慎重なものになるのは仕方ないのかも知れない。だが福島氏や海江田氏の発言よりも更に腰の引けた内容で、橋下発言について直接は良いとか悪いとかいう論評自体を避けている。その上で「とりあえずウチの考えとは違いますよ」とだけ言って我が身に降りかかる火の粉から逃げを打ち、あとは歴史だの人権だので当たり障りの無い事を言ってお茶を濁すだけ。流石は一国の首相だけのことはあって、一連のコメントの中ではある意味(当然悪い意味で)最も政治家らしい発言と言える。

石破茂(自民党幹事長)
「論理が飛躍している。兵士のケアが必要なのは確かだが、だからといってそういう(慰安婦)施設が必要だとはならない。国政を担う党のトップなのだから、四方八方に配慮して発言しないと国益を損なう」
おっしゃる事はごもっともで、いかにも石破さんらしい論理的かつ冷静沈着なコメントだ。というか、いかんせん冷静過ぎてどうにも人間味に欠ける。なんか頭のいい爬虫類みたいだ。いや個人的にはそんな石破さんのキャラクターは嫌いじゃないのだけれど、これじゃあ政治家として国民的な人気は得られないんじゃないかという気がする(大きなお世話だろうが)。去年自民党の総裁選で安倍に負けたのも、案外根っこの部分ではその辺りに原因があるのじゃないかと勘ぐってみたり・・・。

野田聖子(自民党総務会長)
「論外だ。男性の矜持(きょうじ)はどこに行ったのか。コメントしようがない発言だ」
う~ん、意味不明(笑)。「男性の矜持」って一体どういう意味かねえ。「男は女を守るためにこそ戦地で戦うべき」とか、そういうことかな? いずれにしても一連のコメントの中では斜め上に向かって独り突き抜けてる感は否めない。

嘉田由紀子(滋賀県知事)
「戦争状態が大前提というのは問題で、強者の論理だ。同じ政治家の発言としてびっくりした。まずは戦争をしないことが、政治家に求められる」「女性の性を男性の性のはけ口にして、それを風俗などのお金で換算することを前向きに評価している」「性はもっと厳格で奥深いものだ。性を手段視するのは、人間の存在にかかわる大きな問題だ」
前段の「強者の論理」ってのは良く分らないが、買春や風俗産業が性の商品化であるという本質論に言及している点で他の批判とは一線を画す。橋下発言に対して正面から向かい合った批判でまさに正論というかド正論。もちろん、嘉田さんのこうした論理に対しては、橋下市長も既に指摘している通り、自由意志で風俗業に従事する人に対する侮辱だとか職業差別だといった反論があり得るわけで、だからこそ多くの政治家はここまで踏み込んだ議論には二の足を踏んでしまうわけだ。当然、嘉田さんもそうした反論は承知の上のはずだけど、それでも敢えてここまで言い切っている。きっと根が真面目な人なんだろう。個人的にはこういう原理原則論をきっちり踏まえて筋を通せる人が政治の世界にはやっぱり必要だと思う。橋下徹みたいな本音で語るリアリストとは対極に位置する政治家だ。こういう人には好感が持てるし、人間的には信頼出来ると思うのだが、人間的に信頼出来るのと政治家として頼りになる事が必ずしもイコールでないところが政治の難しいところだ。先の衆院選での日本未来の党の敗戦は嘉田さんのそんな真面目さが小沢一郎のマキャベリズムにまんまと籠絡された結果と言えるだろう。


選挙で候補者を選ぶ際の基準は人それぞれだろうが、一般的なものとしてよく挙げられるのは政党と政策と候補者の人柄だ。俺はといえば、以前はほとんど政党及びその掲げる政策だけで投票先を決めていた。政党政治の下では政治家個人の人格などさして大きな意味を持たないし、マスコミを通して知る彼らの人柄なんて表面的なものだから、腹の底まではどうせ解りっこないと思っていたからだ。
しかし最近はその考えが少しずつ変わってきた。いくらマスコミ向けに建前を取り繕っても人はその人間性まで全て隠し切ることは出来ないものだと思うようになった。と同時に、そんな政治家の人間性が垣間見えた時に「この人なら日本の政治を任せてもいいかも」「この人が総理になったらどんな国になるのか見てみたい」と思える政治家も出て来るようになった。もちろん、それがとんでもない見込み違いの可能性はあるし、人柄を見るようになったとはいっても依然として俺の投票行動を決める要素の7割は政策が占めてるんだけどね。

それでも政治を行うのは政治家その人であることには違いない。だからこそ個々の政治家の本心を見極める事、そのために出来るだけ本人の肉声に耳を傾ける事は大事だろうなあとは思う。

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